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創作小説 よしぞー堂

創作小説 よしぞー堂

現代『自転車』9枚




自転車


「自転車から補助輪を取って欲しい」
 たけしはまるで、危険が目の前まで迫ってきているように早口で言った。
 わたしはしつこくエプロンの端を引っ張られたが、放って、たんたんと水切りラックの上へ小皿を置き、ゆったりと蛇口を捻り、水を止めた。水の玉が一、二滴滴落ちて、ステンレスの流しに当たり弾けて消えた。
 自転車の補助輪を無くす。
 それだけのことなのに、できるなら考えたくない事と頭の中で繋がった。もうわずかしか時間が無いのだと不安が湧きあがり、きゅうっと胸が締めつけられた。
 表面上には露骨に出ないよう注意しながら、日常を保つよう努力する。息子のたけしに弱さは見せられない。子供にいらぬ心配をかけられない。母親としての譲れない意地だ。
「ねぇいいでしょう。ぼくは補助輪無しで自転車に乗りたいんだ。今のままだと格好悪い」
「あなたはまだ五歳でしょう、だから早いのよ」
 答えたが、たけしはぜんぜん言うことを聞いてくれない。
「おねがい、おねがいです」
 丸い指でわたしのエプロンを引っ張ってせがむ。
「駄目ですよ、いい加減にしなさい。また今度ね」
 怒ったり絡め取ろうとしたが無駄だった。
 覚悟を決めたようなたけしの顔を見つめていたら、溜息が出た。絶対願いを聞いて貰うのだと訴えかける目から、強い光が放たれていた。そんな目になった事は、今まで一度も無い。欲しい玩具があってもしつこくねだった事もない。
 仕方ない。
「自分が散らかした玩具は自分で片付けるのよ?」
 その約束を条件に、補助輪を取る事にした。
 たけしは喜びを抑えられないのか、飛び跳ねながら台所から居間へ駆けた。
 本当にいいのだろうか。小さな背中を見つめていると、喉が渇いた。冷蔵庫から麦茶を出して飲む。冷えた麦茶で喉を潤す。心地良さに身を浸し、夫の憲太郎なら、可愛い子には旅をさせろと言うかもしれない、と思った。いやきっと言う。
 憲太郎は想像力がないのだ。転んで頭を打ったりしたら、どうするつもりだろう。子供だから体が弱いのだ。大事な時期にダメージを与えたら。最悪のケースしか思い浮かばない。
 それでもわたしが補助輪を取る事に決めたのは、たけしが早く自立するのを、心の何処かで望んでいたからかもしれない。わずか五歳の子に、自立を求めても、無理なのは分かっていたが、正直なところあらゆる現実に疲れていたのだ、わたしは。他人から見れば、親失格のレッテルを貼られるかも知れないが、それでも。


 日曜日、わたしは期待に溢れる幼い視線に背中を刺されながら、補助輪を取った。腰を叩きふぅっと息を吐いて、立ち上がる。
 たけしは、わたしと自転車の周りを、心底嬉しそうにぐるぐる駆け回った。
 子供の成長は早いな。今更ながら思う。少し前まで片言だった感じがする。細く頼り無い足を動かし、普通に歩いているにしても、心配ですぐに腕を伸ばし、小さな体を支えていた。
 たけしと同い年の子の中には、幼稚園の入口で、母親と別れるだけで泣き出す甘えん坊も、少なからずいるというのに。たけしがそんな理由で泣くのを、今まで一度も見たことはない。それが嬉しくもあったし、寂しくもあった。
 たけしは自転車のハンドルを握り、さっそく門から出ようとした。
「危ないわよ何処に行くの」
 訊いたら、当たり前じゃないかというように、たけしは憮然として言った。
「練習に決まってるじゃないかー」


 わたしたちは公園へ行った。ちょうど、たけしよりふたつ上の近所の子も、補助輪の無い新しい自転車を買って貰ったようで、練習に向かおうとしていた。
 たけしは顔に汗を滲ませながら、ハンドルを握りなおし、サドルへ腰を掛ける。
 わたしの手よりも小さい足をペダルにかけ、踏みしめる。
 自転車は少しだけ真っ直ぐ進むが、紐を付けられ引っ張られているように、徐々に横に倒れる。ぎりぎりまで粘るつもりだったのだろう。足を出し遅れ、そのまま倒れる事もあった。車輪がからから回る。たけしは無表情で立ち上がり、手の土を払いながら、自転車を起こした。ハンドルが不安定に動くたび、左へ右へ体全体が傾く。たけしの広い額には、汗が滲んでいる。髪が貼りついている。
 夕焼けに照らされて赤く輝いていた。頬にはほんのり桃色が浮かんでいる。丸く小さな瞳に、余裕は無い。髪の毛には土埃がついている。ときおり土がぱらぱら落ちた。だけれども、たけしは払おうとしない。歯を食いしばり、自転車を思い通り操ろうとペダルを踏み続ける。
 一緒に練習に来た子は、呆れているように、口を開けて見守っていた。
 どうしてそんなに必死なのか、理解できないのかも知れない。
「もう帰ろう」
 わたしは声をかけた。
「もうちょっと」
 たけしが芯の通った声で言う。
「もう少しなんだ」
 見守るしかできない。強引に連れ帰ることもできたが、それはなんだか違う気がした。
 一緒に練習していた子が、明日も練習できるからと先へ帰った。
 わたしたち親子しか、公園に、居なくなってしまった。
 公園を守るように囲む森の木々が、緩やかで暖かな春風に揺れた。
 髪が風と戯れる。抑えながらたけしを見守った。
 夫に見せたい。一目だけでもいい。
 憲太郎は、ベッドで、病が治るのを信じて頑張っている。
「もって、あと一ヶ月です」
 医者の説明が蘇った。
「限界はとっくに越えているんです。薬の副作用による痛みや苦しみも、想像を絶すると思います。奇跡としか言いようが無いんです。一ヶ月と言いましたが、明日かもしれないんです。誇って良いです。旦那さんは、負けずに戦い続けている」
 明日はないかも知れない。
 たけしが転んだ。スローモーションのように見えた。ハンドルを握り、眉間に皺を寄せて咳き込んだ。駆けよろうとすると、小さな体が起き上がった。歯を食いしばり、細く頼り無い足をペダルにかけた。膝小僧から血が流れていたが、たけしは傷を確認することなく、泣き顔も見せず、すぐに自転車を走らせようとした。乗れるようになること以外、興味がないのだ。
 わたしは声をかける事ができなかった。
 いつのまにか、わたしは拳を握りしめていた。
「お父さんに早く見せたいんだ。それでね、いっぱい褒めてもらうんだ。すごいねって」
 心の奥に、ふわりと丸い感覚が生まれた。唇を噛みしめる。風が、止んだ。
 ふと頼り無く揺れていた自転車が、真っ直ぐ走りはじめた。
 足をつく気配はない。先刻まで乗れなかったのが嘘のようだ。なんだか魔法でもかけられたようだ。
 たけしは夢中で自転車を操る。やがてふらふらこちらに近づいてきて、足をついた。これ以上嬉しい事は無いと言いた気な笑顔を、無言で向ける。
 憲太郎。たけしはもう、自転車に乗れるようになったよ。
「やったね。いぇー」
 わたしは親指を立てた。たけしも親指を立て返してきた。
「かえろっか?」
「うん。今日のごはんなに?」
「とんかつでもしよっか」
 わたしは赤い夕焼けを見つめ、沈まないでと、願った。
「やったー。とんかつー」 
 たけしがそう言って、笑った。
 赤く丸い巨大な夕焼けは、わたしの願いとは裏腹に、山の向こうに沈もうとしている。
 稜線がぼうっと、燃えるように赤く染まっていた。
 そこに向かって、カラスが鳴きながら飛んでいく。
 わたしは泣き喚きたくなる気持ちを抑えたまま、ただじっと見つめた。
 小さな手が絡んで来た。
 わたしは夕焼けの赤い光に照らされながら、そっと、頼り無く小さな手を握り返した。









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